1. 日本における認知症と金融資産管理の増大する課題
日本社会は、世界でも類を見ないスピードで高齢化が進んでおり、それに伴い認知症患者の数も増加の一途を辿っている。内閣府の発表によると、2040年には3人に1人が65歳以上になると推計されており、厚生労働省の調査では、2025年には65歳以上の5人に1人が認知症になると予測されている。このような状況下で、高齢者が長年にわたり蓄積してきた金融資産は莫大な規模に達しており、認知症の発症によってその管理が困難になるという深刻な問題が顕在化している。
本コラムでは、特に200兆円という巨額に上ると予測される認知症患者の金融資産に焦点を当て 、この問題が個人、家族、金融システム、そして日本経済全体に与える影響について分析を行う。現状を詳細に把握し、この問題から生じる様々な課題を明確にするとともに、現在講じられている対策や、先進諸国の事例を参考に、日本における今後の対策の方向性を探りたい。認知症患者の金融資産管理は、単なる個人の問題に留まらず、日本の社会保障制度や経済活力にも深く関わる重要な課題であるという認識に基づき、多角的な視点からこの問題に光を当てる。
2. 日本における認知症患者の金融資産の現状
2.1. 推定200兆円の金融資産
認知症患者が保有する金融資産が200兆円に達するという推計は、複数の情報源によって示されている。2018年8月の日経新聞の記事によると、2017年時点で143兆円であった認知症患者の金融資産は、2030年には215兆円に達すると予測されている。この予測は、第一生命経済研究所が2018年8月28日に発表したレポート「認知症患者の金融資産200兆円の未来」に基づいている。同研究所の試算では、2030年度には認知症患者の保有する金融資産が個人金融資産全体の1割に達するとされている。
この額は、日本のGDPの約4割、個人金融資産全体の1割を超える規模である。認知症によって判断能力が低下すると、これらの資産が凍結され、消費や投資に回りにくくなることが懸念されている。
一方で、三井住友信託銀行は、2020年時点で認知症高齢者が保有する資産総額は約250兆円、2030年には314.2兆円、2040年には約345兆円に増加すると独自に推計している 。この推計には、金融資産だけでなく不動産も含まれており、より広範な資産を対象としている点が第一生命経済研究所の推計と異なる。いずれの推計も、認知症患者が保有する資産が巨額であり、今後も増加傾向にあることを示唆している。
2.2. 認知症と資産保有に関する現状と将来予測
日本の高齢化は今後も加速し、認知症患者数は増加すると予測されている。高齢者は若年層と比較して多額の金融資産を保有する傾向があり、団塊世代が後期高齢者となる2022年以降、この傾向はさらに強まると考えられる。認知機能が低下する高齢者の増加が見込まれる中で、高齢者を支える配偶者や子供の数が減少している「おひとりさま」や「おふたりさま」の高齢者の増加も、資産管理の課題を深刻化させる要因となる。
金融庁も、高齢社会における資産形成・管理を重要な課題と位置付けており 、認知症患者の増加とそれに伴う金融資産の凍結問題に対する関心の高まりを示している。今後、認知症高齢者の保有する金融資産はさらに拡大する局面に入ると予想され、その対策は急務となっている。
3. 認知症患者の金融資産保有による課題
3.1. 資産管理と金融取引の困難性
認知症の発症により判断能力が低下すると、本人による金融資産の管理や取引が困難になる。これは、いわゆる「資産凍結」と呼ばれる状態であり、預貯金の引き出し、送金、投資信託の売買などが本人の意思確認ができないために制限される 。
家族が本人の代わりにこれらの手続きを行おうとしても、金融機関は原則として応じない。これは、家族による横領や詐欺のリスクを避けるための措置であるが、医療費や介護費など、本人に必要な資金が引き出せなくなるという問題が生じる。金融機関は、顧客の判断能力に大幅な低下があることを知った時点で取引を制限するとされており、認知症と診断された場合だけでなく、窓口での対応や家族からの連絡などによっても判断されることがある。
3.2. 親族間の相続トラブルの増加
認知症の相続人がいる場合、遺産分割協議が円滑に進まなくなる可能性が高まる。重度の認知症により意思能力を失った相続人は、遺産分割協議に参加して有効な意思表示をすることができないため、その相続人を除外して行われた遺産分割協議は無効となる。
また、被相続人が認知症であった場合、生前に作成された遺言書の有効性が争われるケースもある。遺言能力がなかったと判断された場合、遺言書は無効となり、遺産分割協議を改めて行う必要が生じる。認知症の程度が軽い場合でも、遺産分割協議当時の意思能力の有無が争点となり、親族間で深刻な対立を引き起こす可能性がある 。
3.3. 成年後見制度の利用状況とその課題
認知症などにより判断能力が不十分になった人の財産管理や身上監護を支援する制度として、成年後見制度が存在する 。しかし、その利用率は、認知症患者数と比較して低い水準に留まっている。
利用が進まない理由としては、申立ての手続きが複雑で時間と労力を要すること 、費用がかかること(鑑定費用や後見人への報酬など)、親族が後見人になりにくい現状 、制度の内容や利用方法が十分に周知されていないこと、などが挙げられる。また、成年後見制度を利用すると、財産管理が厳格に行われ、柔軟な資産運用が難しい場合があることや、一度利用を開始すると原則として本人が死亡するまで継続することなども、利用を躊躇させる要因となっている 。
近年では、親族以外の専門職(弁護士、司法書士、社会福祉士など)が後見人に選任される割合が増加しており、その報酬が経済的な負担となるケースもある。このような課題から、成年後見制度に代わるものとして、任意後見制度や民事信託(家族信託)といった制度も注目されている。
3.4. 金融犯罪被害のリスク
認知症患者は、判断能力や記憶力の低下により、金融詐欺や悪徳商法の被害に遭いやすい 。特に、オレオレ詐欺や還付金詐欺といった高齢者を狙った特殊詐欺の被害が後を絶たない 。
2023年の特殊詐欺被害者の約8割が高齢者であり、認知機能が低下した高齢者は、巧妙な手口に騙されやすく、多額の資産を失うリスクが高い。金融機関も、このような状況を認識し、高齢者への注意喚起や、不審な取引の早期発見に努めている。しかし、認知症の初期段階では、周囲も本人も被害に気づきにくい場合があり、早期の対策が重要となる。
4. 日本における課題への対策
4.1. 金融機関による認知症患者とその家族への支援
金融機関では、高齢化が進む社会において、認知症患者とその家族が抱える課題に対応するための取り組みが進められている 。成年後見制度を利用する顧客向けの預金商品「後見制度支援預金」や信託商品「後見制度支援信託」を提供する金融機関もある。
金融分野における高齢者の経済活動や資産選択などを研究する「金融ジェロントロジー」という分野も注目されており 、高齢者に対する金融サービスのあり方について研究が進められている。全国銀行協会は、認知判断能力が低下した顧客等への支援を目的として、「金融取引の代理等に関する考え方」を公表し 、家族による預貯金の引き出しを一定の条件下で認めるなど、柔軟な対応を促している。
また、一部の金融機関では、家族が本人の口座状況を確認できる「代理人カード」や、定期預金の解約なども可能な「予約型代理人サービス」を導入している。金融機関と地域包括支援センターや社会福祉協議会などの福祉機関との連携も強化されており 、認知症患者が必要な支援に繋がるよう努めている。
4.2. 政府・自治体による取り組み
政府は、認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し、相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会の実現を目的として、2024年1月1日に「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」を施行した。この法律に基づき、認知症施策を総合的かつ計画的に推進するための基本計画が策定される。
また、「高齢社会対策大綱」においても、認知症高齢者への支援や、その金融資産の適切な管理に関する施策が盛り込まれていると考えられる。地方公共団体も、地域の状況に応じて、認知症施策を計画・実施する責任を負っており、成年後見制度の利用支援事業などを展開している。
政府は、「成年後見制度利用促進基本計画」を策定し、制度の利用促進に向けた取り組みを進めているが、依然として課題も多い。
4.3. 関連法制度の現状と改正の動き
成年後見制度は、民法に基づいて定められているが 、2019年には、成年被後見人や被保佐人の欠格条項が廃止されるなどの改正が行われた。これは、ノーマライゼーションや自己決定権の尊重の観点から問題視されていた点を改善するものであり、成年後見制度の利用促進が期待されている。
現在、成年後見制度については、利用時期の選択や法定後見人の交代制度など、更なる法改正の動きも検討されている。これらの改正により、成年後見制度がより柔軟で利用しやすいものになることが期待される。
相続に関する法律においても、認知症の相続人がいる場合の遺産分割協議の方法や、認知症の被相続人が作成した遺言書の有効性などについて、裁判例が積み重ねられている 。
5. 先進国における同様の問題と対策
5.1. アメリカ合衆国
アメリカでも、認知症患者の増加とそれに伴う経済的負担は深刻な問題となっている 。成年後見制度(Guardianship/Conservatorship)が存在し、判断能力を欠く成人の財産管理や身上監護を行う。また、Power of Attorney(委任状)やLiving Trust(生前信託)を活用した事前対策も一般的である。金融機関では、認知症患者向けの金融商品やサービスも開発されている。
5.2. イギリス
イギリスにおいても、認知症は大きな社会問題であり、経済的影響も甚大である。Lasting Power of Attorney (LPA) という制度があり、本人が判断能力のあるうちに、将来の財産管理や身上監護を委任する人を指定できる。LPAがない場合には、裁判所がDeputyship(代理人)を任命する制度がある。認知症患者向けの金融商品として、Sibstarというデビットカードとアプリが開発されている。また、「Dementia Friendly Financial Services」というガイドラインも制定されている。
5.3. ドイツ
ドイツでは、認知症患者の増加とそれに伴う経済的負担も同様に大きな課題である。成年後見制度が存在し、判断能力を欠く人の財産管理などを行う。認知症患者向けの特別な金融支援策や保険制度も存在する。認知症や介護に関するオンライン学習プログラムも提供されている。
5.4. フランス
フランスにおいても、高齢化に伴い認知症患者は増加しており、その経済的影響も無視できない。脆弱な成人を保護するための法的枠組みが存在する。Allocation Personnalisée d’Autonomie (APA) という、自律性の喪失した高齢者向けの個別化された給付金制度が重要な役割を果たしている。認知症患者やその家族を経済的に支援する取り組みも行われている。
6. 各国の事例との比較と日本への示唆
6.1. 日本特有の課題
日本における認知症患者の金融資産問題は、急速な高齢化という人口動態と深く関連している 。他の先進国と比較しても、日本の高齢化のスピードは速く、それが認知症患者数の増加と、彼らが保有する金融資産の増大に直接的に繋がっている。また、日本社会においては、家族が介護や財産管理において大きな役割を担うという文化的背景があり、成年後見制度の利用が進みにくい一因となっている可能性も考えられる。さらに、「おひとりさま」高齢者の増加は、頼るべき家族がいないために、より深刻な資産管理の問題を引き起こす可能性がある。
6.2. 各国のベストプラクティスと日本への教訓
各国の事例を比較すると、イギリスのLPA制度は、本人の意思を尊重しつつ、将来の財産管理と身上監護を包括的に委任できる点で、日本における任意後見制度の活用を促進する上で参考になる。アメリカのPower of AttorneyやLiving Trustの普及は、より柔軟な事前対策の重要性を示唆している。ドイツの認知症患者向けの保険制度やフランスのAPAのような公的な経済支援策は、日本の社会保障制度を検討する上で有益な視点を提供する。また、イギリスのSibstarのような認知症患者に特化した金融商品の開発は、金融機関が果たすべき役割の可能性を示唆している。
7.日本への包括的な提言
7.1. 成年後見制度の改善
成年後見制度の利用を促進するため、申立て手続きの簡素化と費用の軽減、制度に関する国民の理解促進、親族後見人への支援と研修の充実、ニーズに応じた柔軟な制度設計(例えば、支援の段階に応じた類型化)などが必要である。
7.2. 事前対策としての金融管理ソリューションの推進
民事信託(家族信託)のような柔軟な財産管理方法の普及啓発や、軽度から中程度の認知症患者がより主体的に金融管理に関与できるようなサポート付き意思決定モデルの検討が重要である。
7.3. 消費者保護と金融犯罪防止の強化
高齢者を金融詐欺から守るための規制強化と監視体制の強化、金融機関、警察、福祉機関の連携強化、金融機関職員に対する認知症に関する研修の義務化などが求められる。
7.4. 関係機関の連携強化
金融機関、医療機関、政府機関の間の情報共有の促進(プライバシーに配慮しつつ)、認知症患者とその家族を支援するための定期的な対話と連携のプラットフォームの構築が必要である。
7.5. 法制度の更なる検討
イギリスのLPA制度に類似した、財産管理と身上監護の両方に対応できる制度の導入や 、認知症患者の状況に配慮した相続法の見直しなども検討すべきである。
8. 結論:高齢化社会における認知症患者の金融的尊厳の確保に向けて
認知症患者が保有する巨額の金融資産は、適切に管理されなければ、本人とその家族の生活を困難にするだけでなく、日本経済全体にも負の影響を及ぼしかねない。本レポートで分析したように、この問題は多岐にわたる課題を含んでおり、その解決には、法制度の見直し、金融機関の取り組みの強化、政府・自治体の施策の推進、そして国民全体の意識改革が必要である。
先進諸国の事例を参考にしながら、日本社会の特性を踏まえた上で、成年後見制度の改善、柔軟な財産管理方法の提供、金融犯罪からの保護強化、関係機関の連携強化といった多角的な対策を講じることで、高齢化が進む日本において、認知症と共に生きる人々が安心して、そして尊厳を持って生活できる社会の実現を目指すべきである。弊社はこの分野において、人の権利と命を守りながら、データが正しく・安全に使われる世界をつくるためのガバナンス基盤を構築し、安全・透明・経済合理性を両立し得る経済圏の確立を目指す。また、スイスの金融制度を活用した資産保全の仕組みも検討する。