(代表談)先日あるセミナーで講演を終えた後、「BPSDという言葉は、認知症の方の尊厳や人権を傷つけるおそれがあるのではないか」というご意見をいただきました。
ご丁寧なご指摘に、まず心から感謝申し上げます。
確かに、「行動・心理症状」という表現は、本人を“問題行動”として捉える印象を与えるかもしれません。しかし私がこの言葉を使うのは、差別や区別のためではなく、科学的に理解し、より良いケアを実現するためです。
科学的理解のための「共通言語」
BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)は、認知症の行動・心理症状を指す国際的な概念です。これは「暴言」「徘徊」「不眠」などの行動そのものを問題視するためのものではなく、背景にある脳の変化や環境要因、心理的負担を整理し、科学的に理解するための共通言語です。言い換えますと、BPSDという言葉は、本人をラベリングするためではなく、行動や心理の変化を“観察可能な現象”として科学的に捉え、背景要因を分析し、ケアの質を高める目的で導入されたものです。
AIやロボティクスを活用してこの領域を研究・支援していくためには、まず「定義」を明確にする必要があります。BPSDという言葉を避けていては、以下のような開発プロセスは成立しません。
- BPSDの定義
- 関連する身体反応の分析
- 予測に必要な科学的データの定義
- データ取得方法の決定
- AI開発とフィードバックループ構築
現場では、ケアをしていても報われない気持ち、怒りや悲しみを抱くことがあります。それを『BPSD』として科学的に理解し、原因を探ることが、ケアする人の心を守ることにもつながります。私たちが目指すのは、「ラベリング」ではなく「リスニング」。つまり、症状の背後にある心と体の声を聴く科学です。
尊厳を守るためのテクノロジー
「テクノロジーは冷たい」と言われることがあります。しかし、テクノロジーの目的は理解を深めることであり、決して“管理”や“監視”ではありません。AIを用いることは、むしろ本人の尊厳を守るための手段です。
BPSDを科学的に捉え、データとして理解することで、「なぜその行動が起きたのか」「どうすれば穏やかに過ごせるのか」を見極めることができます。それは本人の苦しみを減らし、同時に介護者の心の余裕を取り戻すことにもつながります。尊厳は、介護される側だけでなく、介護する側にも存在するのです。
「気を遣いすぎる社会」が進化を止める
「認知症は病気ではない」「BPSDという言葉を使うべきではない」といった議論を、私は完全に否定するつもりはありません。しかし、あまりに言葉尻ばかりに神経を使いすぎると、科学の前進や社会実装が止まってしまうのです。
現場で働く方々は、日々、命と向き合いながらケアをしています。ケアの現場は、理屈ではなく“人の感情”の集まりです。それを「人権に配慮すべき」という言葉だけで片づけてしまうと、現場の尊厳が見えなくなってしまう。私はこの点を非常に危惧しています。
国難とも言える現状の中で
日本の認知症高齢者は2035年には800万人を超えると見込まれています。これは、医療・介護・家族・地域すべてが連携しなければ立ち行かない「国難」です。このような状況において、「言葉への配慮」を優先しすぎるあまり、科学的進歩を止めてはいけません。
だからこそ私は、研究者として、また現場の課題に向き合う一人の開発者として、「言うべきことは言う」「伝えるべきことは伝える」という姿勢を貫いていきます。それが、未来の介護と社会全体のためになると信じています。
共に進むために
BPSDという言葉を使うのは、決して無神経だからではありません。それは、“理解と共感を科学で支える”という覚悟の表れです。
尊厳と科学、感情とデータ。
どちらか一方を選ぶのではなく、両者が手を取り合うことで、初めて真に人に優しいケアが実現すると私は信じています。すべての人が「当事者意識」を持ち、同じ方向に進むこと。それこそが、介護の未来を変える第一歩だと思います。
(代表談おわり)